由来・名所

鬼高の由来・名所

鬼高の地名は、明治44年から大正8年にかけて実施した「八幡町外九ヶ町村耕地整理組合」による耕地整理の結果誕生しました。耕地整理以前のこの地域は、江戸時代より鬼越村、高石神村(当時中山村の大字)の飛地が入り乱れていて耕地整理が終了しても区分をするのに困難を来していました。そこで中山村では現在の総武線以南の地域を一括して、鬼越の「鬼」と高石神の「高」をそれぞれの大字から一字取り、新たに「鬼高」と名付けました。 この地域は市川砂州上にあり、千数百年前には現在の二丁目と三丁目の境界あたりが、当時の海岸線だったことが、昭和12年の共立モスリン工場地造成工事の時発見された遺跡により明らかになりました。調査の結果、古墳時代後期(1400年ほど前)の坑木と貝塚が出土され「鬼高遺跡」と名付けられました。また、今ではあまり見かけなくなりましたが、この地域には沼地が多く「判官面(二丁目)」、「身洗場(三丁目)」などと呼ばれたところもありました。共立モスリンの前身は大正9年に創設された上毛モスリン中山工場で、昭和2年に共立モスリン中山工場となり、さらに昭和16年に日本毛織株式会社が吸収合併して、日本毛織(株)の中山工場となりました。手編み毛糸、メリヤス糸の生産にあたり、最盛期には2500人の従業員がいましたが、時代の流れで昭和57年工場は閉鎖され、その跡地が昭和63年にニッケコルトンプラザとして生まれ変わりました。 

現在鬼高は、小・中学校はもとより県立産業科学館をはじめ、警察署、中央図書館、検察庁、裁判所など十指に余る公共施設が設置され、安全で利便性に富んだ町となりました。

鬼高の名所・名所:鬼越の鎮守様

IMG_0245神明社は天照大神様が御祭神です。古老の口碑によれば約700年前より鬼越村に鎮座したとのことですが、境内には元和二年(今から370数年前)伊勢の皇大神宮より遷宮されたとの石碑があります。現在の社殿は明治年間の造営で、境内には耳の道祖神(耳の神様)、大神様(学問の神様)、お諏訪様(商売の神様)、与力様(力)の神など(鎮世)浅間神社(富士信仰)が祭られていますが、これは大正年間の区画整理の為、村内に散在していた神社をお遷したものです。現在の宮神輿は大中2基ですが、大神輿は皇紀2600年を記念して行徳の浅子周慶氏に作成を依頼したものです。その後昭和56年本祭りの際鬼越・鬼高有志の寄付により大神輿は修復され、3年に一度の本祭りには勇壮にくり出されます。

鬼高の名所・名所:こるとん神社

img_coltonこるとん神社の御祭神は天照大御神です。昭和の初め伊勢の神宮より御分霊を御奉遷申し上げ、この森のお神鎮り願った。当初、御社殿は千葉県東葛飾郡中山町大字鬼高共立モスリン株式会社中山工場内の森を神域として設けられ、昭和16年合併により日本毛織株式会社中山工場へ、そして昭和63年ニッケコルトンプラザへと引き継がれました。 現在の御社殿は昭和11年の造営で、昭和46年にかやぶき屋根を銅板に改修して今日に至っています。 御神徳として商売繁盛・魔除け開運・縁結び・学業成業成就等を有せられます。現在神社内の公園は市民憩いの場として親しまれています。

鬼高の名所・名所:鬼高遺跡

img_iseki鬼高遺跡は昭和12年(1937年)共立モスリン工場地造成工事の際に発見されました。 工事を始めると水田表面下1メートルほどから貝殻が出土し、さらに1メートルほど下まで獣骨、坑木、土器片などが出てきました。遺跡の基底の標高は約2.7メートルで同時期の他の遺跡よりはるかに低位です。出土した加工された坑木は住居の用材だと考えられ、貝塚は坑木が発見された地帯を半月型に囲んで形成されていました。この遺跡は古墳時代後期(5世紀後半)の海浜遺跡であり、特徴は岸辺の海上に住居を築いて、漁労を中心の生活をしていたと考えられます。当時の海岸に造られた抗上遺構と考えられ、「鬼高遺跡(2479平方メートル)」と名付けら昭和63年7月5日に市の史蹟に指定されました。